てぃーだブログ › 光と影 › いいはなし › マスコミ › 天皇皇后両陛下のパラオご訪問

2015年04月11日

天皇皇后両陛下のパラオご訪問

天皇皇后両陛下のパラオご訪問に関してですがマスコミ各社はパラオの方々の気持ちをきちんと感じたのでしょうか、好意的に報道している様子が受け取れました。

【戦後70年】父母よ 南洋に眠る魂
2015年04月06日 讀賣オンライン
 「父母ヲ見タクテ タマリマセン」――。

 日本から約3000キロ離れた無人島の壁に書かれた、カタカナ交じりの望郷の念が、戦後70年近くたった今も、心を打つ。

 大小600ほどの島々からなるパラオ。太平洋戦争当時、旧日本軍の東洋最大クラスの飛行場があった南部のペリリュー島では、日米双方で約1万2000人が戦死した攻防が繰り広げられた。

 1944年3月、コロール島で米軍による大空襲を体験したアントニナ・アントニオさん(83)は、逃げまどった森の中で、動けなくなった瀕死ひんしの日本兵に出くわしたという。持っていたバナナを差し出すと、「自分はもう長くない。子供に食べさせなさい」と、その兵士は受け取らなかった。

 「あの人は、生きられなかったと思う……」。アントニオさんは、日本の委任統治時代に覚えた日本語で思い出を語った。激戦の中にも人々にあった思いやりの気持ちが、せめてもの救いになる。

 ペリリュー島では現在も、島のそこかしこに戦車や航空機などの残骸が置き去りにされ、当時の様子をとどめている。天皇、皇后両陛下のご訪問が決まった昨年9月以降、戦跡を巡る日本人観光客の数が3倍以上に増えたという。

 夫方の祖父の弟が南方戦線で戦死した、横浜市の30代の夫妻は、「日本では感じられない生々しさがある。歴史から逃げずに事実を知りたい」と、旧日本軍兵士が自決した地の慰霊碑に手を合わせた。

 今月8~9日、天皇、皇后両陛下がパラオを訪問し戦没者を慰霊される。

 写真と文 尾崎孝 佐々木紀明(2月23日から3月3日に撮影)

http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=2657021
↑このリンク先の動画でニナ・アントニオさんはこう述べています。
ニナ・アントニオさんの言葉

戦前は南洋拠点の地=空襲で町が「火の玉」―コロール
時事通信 4月8日(水)18時10分配信
 天皇、皇后両陛下が8日訪問されたパラオの中心地コロールは、日本統治下だった太平洋の島々を管轄した南洋庁が置かれた拠点の地で、沖縄などから多くの日本人が移り住んだ。太平洋戦争中、ペリリュー島のような大規模な戦闘はなかったが、米軍による空襲で大きな被害を受けた。
 開戦当初から、旧日本軍はパラオを南方進出のための足場として使用し、フィリピンやニューギニアなどの攻略を図った。
 1944年3月、米軍は航空機による大規模な攻撃を実施。町は激しく燃え上がり、当時を知るマリヤ・アサヌマさん(85)は「コロールが火の玉になった」と振り返る。同年7月の空襲で自宅に爆弾が落ちてめちゃめちゃになったが、家族と防空壕(ごう)にいて助かった。
 戦争が激しくなり、コロールのほか、ペリリュー島の住民たちもパラオ本島へ疎開した。待っていたのは食糧難。パラオ人と違い、ジャングルで食べる物がどこにあるかを知らない日本人の餓死が相次いだ。アサヌマさんも、日本兵が木の下に座ったまま亡くなっていたとの目撃談を聞いた。
 ニナ・アントニオさん(83)はある日、畑の作物を取りに行くと、家の小屋に日本兵の姿を見つけた。やせ果て、家族の写真を柱に立てかけ、座っていた。「兵隊さん、バナナをどうぞ」と渡そうとしたが、「私はもう助からない。あなたたちの分が減る」と受け取らず、次の日小屋に行くと姿はなかった。
 戦時中の苦しい中、パラオの青年たちは「斬り込み隊」という部隊を結成。米軍が上陸したら、日本の兵隊と一緒に戦う準備をしていたという。
 両陛下の訪問について、アサヌマさんは「コロールでもたくさんの日本の兵隊が死んだから、天皇陛下が来るのはいいことだ」と語った。アントニオさんは「学校で毎朝、『私どもは天皇陛下の赤子(せきし)です』と言っていたので、天皇陛下を一度見てみたい」と話した。 


では、われらが琉球新報はどう報道したかというと。

琉球新報20150408
「一つ、私どもは立派な日本人です」「一つ、私どもは天皇陛下の赤子です」

パラオの中心地コロールに住むニナ・アントニオさんが、戦前に通っていた「公学校」の風景を流ちょうな日本語で再現した。毎朝8時、教室に並ぶパラオの子供たち。「黙とうのときは、日本の兵隊さんが弾に撃たれないように祈りました」

戦局の悪化に伴い、教育が軍国主義的になったのも本土と同じだった。コロールでの空爆が始まる直前の時期には、習う歌も「お手々つないで」などの歌詞の童謡から、軍歌の「見よ東海の空明けて」「勝って来るぞと勇ましく」に変わった。

だが、当時の日本語教育などは「未開な現地住民を文明化し、支配を受け入れるようにすること」が目的。「国民」にも日本人を「一等」とし、沖縄と朝鮮半島出身者を「二等」、現地住民を「三等」とする暗黙の了解があった。

公学校の放課後には日本人の家庭で家事を手伝う「練習制度」があった。「奥さんは風呂場にお金を置いて私が泥棒かどうか試していました。それが一番嫌でした」とニナさんは苦い過去を語る。

2009~13年に駐日大使を務めたミノル・ウエキさんも、日本人の父とパラオの母を持ち、日本人が通う学校に籍を置いたが「パラオの血が入っていると、いくら優秀でも級長にはなれなかった。島民と呼ばれ、野蛮人のグループのように扱われた」と理不尽さを忘れない。

慰霊を目的とする両陛下の訪問には、元パラオ大統領のクニオ・ナカムラさん(71)が「亡くなった多くの魂を追悼する素晴らしい機会」と話すなど歓迎の声が広がる。それでも、ニナさんは「私たちは一番下だから会えないんでしょう」と寂しそうにつぶやいた。



讀賣オンライン、時事通信も琉球新報も同じ方に話を聞いているようですが話している内容はだいぶ違うように思えます。
しかも琉球新報の
琉球新報20150408
このインタビュー記事ですがなぜか写真の解説には「2月」と書かれています。
写真の解説には2月と記載
琉球新報は本当に2月にお話を聞いたのでしょうか?

天皇皇后両陛下、パラオにご到着 笑顔で国際空港をあとに(15/04/08)

(5:20頃からニナ・アントニオさんのインタビューがながれます)

ニナ・アントニオさんは讀賣オンラインや時事通信、FNNの取材とは違うことをお話しされたのでしょうか?
複数のインタビューを見る限りではニナさんは天皇皇后両陛下の事をお慕いしてるように思えますが、琉球新報の報道がもしも想像で書かれていたら
琉球新報の記事をニナ・アントニオさんがご覧になったらさぞかし悲しむ事でしょう。
責任観念

琉球新報社是


おまけです。

両陛下のパラオご訪問を心待ちにしている日系人を取材しました。(15/04/08)


天皇皇后両陛下、パラオにご到着 政府主催の晩さん会出席へ(15/04/08)



同じカテゴリー(いいはなし)の記事
カズは器がでかい
カズは器がでかい(2015-04-14 16:02)


Posted by ヒロシ@tida at 22:57

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 46人
プロフィール
ヒロシ@tida